「男を尊び女を卑しむの慣習人民の脳髄を支配する我国」
もう、何回読んでも強烈すぎな、井上毅が明治19年に記したこの言葉。特に、前半から仮名を除くとキレイに「男尊女卑」という熟語になるのが、もはや「美しいまでに醜い言葉」だと感じます。

「男尊女卑」という言葉、今年の1月にもこのブログに書いたのですが、元は中国の古典「列子」に端を発した言葉であり、その起源を辿ると「あまりに報われない状況を慰撫するための観念」であった事がわかります。
あえて「男」と書きますが、「日本男児」だったら、こんな「かりそめの慰撫」で脳内を麻痺させるような状況へ甘んじる事を受容できるのか?
普段、「お手軽な罵倒対象」として匿名で石を投げる中国に由来する価値観に、自身がべっとりと依存して、皇統の安定における現実策と対峙する事から逃げながら「男系男子固執」をループ再生し続けるのか?
「日本人ファースト」というスローガンを用いるのだったら、男尊女卑という「輸入モノの麻薬」への依存を断ち切り、日本のしなやかな国柄である万葉一統の双系という価値観に向き合えなければ、理(ことわり)が通じません。
これに異議があるのだったら、「愛子天皇論3」の特に最終章に対して、徹底的に「いや、男を尊び女を卑しむ事そこが日本の国柄である!」と論じてみせれば良い。
愛子天皇論3の「寄贈運動」は、「穏健な陳情」などではなく、「導火線に火のついた爆薬を抱えての表敬訪問」であると私は捉えています。
さあ、どうする?どうする?





















